暮らしに役立つものづくりの40年
Since 1983
1983年に創業した株式会社ソフケンは、2023年の今年、創業40年を迎えることができました。お客様をはじめとする多くの方々の格別のご愛顧、ご支援の賜物と心より感謝しております。今後とも、これまで同様のお引き立てを賜りますようお願い申し上げる次第です。
四十年一日の如し
History
1983年昭和58年
創業
1月22日、現社長・駒村武夫により創業。
会社設立当初は、体裁を気にせず松戸の自宅でやろうと思ったんですけれど、兄の知人で墨田区で工場経営をしている社長さんから是非うちの会社でと熱心にお誘いいただき、(東京)墨田区にある工場の2階に机と製図板を持ち込んで、都内デザイン事務所として始めました。(代表取締役 駒村武夫)
1984年昭和59年
ユビラーク
ユビラークを開発し、外部に販売委託。
その時に開発したユビラークという指圧のグッズが、少しずつ売れ出して。ある程度まとまった資金が入ってくるようになりました。(代表取締役 駒村武夫)
1985年昭和60年
独立
間借り状態から正式に独立、新富町(東京都中央区)に事務所を構える。
間借りしていた墨田区の会社は工業用ゴム製品のメーカーで、社長さんはアイディアマンで、配管のワンタッチ接手、シールド部品などいくつものテーマを持っていて、その構想に協力させていただいていたのですが、アイディアを具体化するにはリスクが大きく、特許申請どまりになりました。お借りしたスペースはゴム工場の2階、仕上げ場の一画で、ゴムのカーボンで製図板も黒くなって困りましたが、社長さんのご家族の方々からとても親切にしていただき、下町のアットホーム工場経営を体験させていただきました。ユビラークがまとまって売れたのを機に築地にデザイン事務所を構えることができるようになりました。(代表取締役 駒村武夫)
1986年昭和61年
ハックリン
ハックリンの開発、販売開始。
ハックリンは、ユビラークを使っていただいた方から、これとてもいいけれど一回買ったらいつまでも使えてしまうよねー、この「糸ようじ」はすぐれもので消耗品なので何度も買ってもらえると、見せてくれた外国企業の糸ようじをくれました。持ち帰り使ってみたところ効果は良いものの使いにくい、そこで銀座有楽町のドラッグストアに行き、世界中のオーラル製品(口腔衛生用品)を買い求めて使ってみましたが、どれも一長一短であったので、あれこれ試行錯誤しながら都立図書館に通い研究してみました。既存製品の使いづらい問題点を解消した製品としてハックリンを開発しました。(代表取締役 駒村武夫)
1993年平成5年
移転
本社を千葉県松戸市に移転、流山市に倉庫兼工場を設ける。
流山時代は、組み立ては全部外注だったんですが、4人のパートさんをメンバーに加え、自社内でも組み立てをするようになり、みんな一生懸命、1日で800枚できた! 1200枚できた! って競争するように面白がってやってくれました。(代表取締役 駒村武夫)
1996年平成8年
クリックフレーム
「クリックフレーム(現在のラクパネ )」販売開始、世界主要12カ国にて特許取得。
特に面白かったのは、接手(つぎて)。つまり、モノとモノをつなぐというそういう機能部品をテーマに研究開発していました。その接手で、フレームを揺動状に連結するという技術を発見しました。それが、今の前開きのフレームにつながっていくんですね。(代表取締役 駒村武夫)
1997年平成9年
パネランド
千葉県白井市に本社・工場を建設。「パネランド」を開発、販売開始。
流山時代は「パネランド」という連結するパネルのことを考えていました。白井に来てからは、その企画を形にすることができましたね。パネルを連結して1枚の絵を作るというもので、今でも使われています。(代表取締役 駒村武夫)
1999年平成11年
2004年平成16年
グッドデザイン賞
ソフケンフレームを着せ替え扉として採用したシステムキッチンがグッドデザイン賞を受賞。
直販サイト「ストア・ソフケン」開設
ソフケンフレームを自社サイトで販売できるようにしました。自社製品を自社で販売することで、下請け企業からの脱却を図り、オリジナル製品の提案も行えるようになっていきます。
2006年平成18年
カナダ
カナダに前開きパネルを販売する会社 raku ccorporation を共同出資(技術提供)。
2008年平成20年
グリップフレームシステム
グリップフレームシステムの開発、販売開始。グリッパー構造、特許取得。千葉のちから「中小企業・小規模企業表彰」を受賞。
2009年平成21年
LEDパネル ラクライト
LEDパネル ラクライトを開発、販売開始。
2015年平成27年
日本ものづくりワールド
日本ものづくりワールドに参加。
2016年平成28年
MEDIX2016
MEDIX2016に協力会社と共同出展。資本金を2,400万円に増資。
2017年平成29年
ファブサインフレーム
テンションファブリック専用フレーム「ファブサインフレーム」の開発。MEDTEC2017に協力会社と共同出展。
2018年平成30年
国立ガン研究センター
国立ガン研究センターと共同でデバイスセンサーを開発。デバイスセンサー(特許)を国際医学会(ロンドン)にて発表。
そこで出会った先生が、内視鏡手術の手技をなさる方でした。その医術を評価する機械が欲しいということで、その設計をさせていただいたんですね。試作したものを使って、先生が論文を書き、 国際医学会に提出したところ採択され、ロンドンで発表されました。
2019年令和元年
はばたく中小企業・小規模事業者300社
はばたく中小企業・小規模事業者300社(経済産業省中小企業庁主催)に選定。
2021年令和3年
カスタムスタイル S
飛沫感染防止パーテーション、カスタムメイド製品の販売サイト「カスタムスタイル S」を開設。
2022年令和4年
医療機器
医療機器製造業として登録。ちばSDGsパートナーとして登録。
千葉県の産業振興課が推進する医工連携の事業に参加して、その流れで、医療機器製造業社として登録する事になりました。医療機器の開発も加速しています。(代表取締役 駒村武夫)
2023年令和5年
創業40周年
2023年1月22日、株式会社ソフケンは創業40周年を迎えました。
今日一日の連続が40年です。四十年一日の如しですね。ビジョンがあったわけではなく、目の前のことに一つひとつ取り組んできただけのことなんです。どんなことも、自分からこうしていこう、はなくて、何らかの外からのはたらきかけで、流されて、ご縁が広がっていきました。(代表取締役 駒村武夫)
役に立つもの、世の中に必要とされているものを作り続ける。
代表取締役 駒村武夫 対談インタビュー
(聞き手:弊社コンテンツアドバイザー はにわきみこ)
ーーソフケン40周年おめでとうございます。今日は色々とお聞きしたいと思いますので、よろしくお願いします。
駒村 ありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします。本当にあっという間の40年でしたね。お客様、販売代理店の皆様、ご協力いただいている皆様、今のそしてかつての従業員たちにも、只々感謝ですね。四十年一日の如しです。
ーー40年のうちの半分以上が、この白井ですね。
駒村 平成9年(1997年)に工場を建てて、その年の10月3日に移転しました。
ーーなぜこの土地を選んだのしょうか?
駒村 ここに来る前は、千葉県流山市で営業していました。当時、開業予定のつくばエキスプレスの駅ができるということで、立ち退きの話が出てきまして。もし立ち退かないならそこの土地を買ってくださいと言われました。坪単価90万円の土地の購入というのは、とても難しいことでした。
そこで、千葉県柏市の高柳や、埼玉県の三郷といった土地も探しましたけれども、これというものがなく。その時に紹介してもらった不動産屋さんから、白井の工業団地を教えていただいて、購入することになりました。工専地区(工業専用地区)でないと、工場を建てられないのです。
それまでは、倉庫を借りていました。やはり、作っている場所、保管している場所、事務所が分離していると不便なんですね。製造業は、工場と事務所が一体となっていることが理想です。
最初の頃は工場があることが優先で、工場の中の一部を事務所にしていました。会議室もなかったです。そこが手狭になったので、隣の土地を買って、今使っている事務棟を増やしました。
ーー平成9年(1997年)の竣工から26年間! 四半世紀ですね。
駒村 前の工場は狭かったのでね。白井に来てからは大きなものが作れるようになりました。流山時代は「パネランド」という連結するパネルのことを考えていました。白井に来てからは、その企画を形にすることができましたね。パネルを連結して1枚の絵を作るというもので、今でも使われています。
ーー広い土地に工場を作ったことで、大型のものを生み出せたと言うことでしょうか?
駒村 当時は、製品の大きさよりも、数の多さへの対応が重要でした。パネルは年間35万枚ほど作っていましたので、それを保管しておく場所が必要でした。流山時代は、ジグソーパズルがブームで、作っても作ってもどんどん売れていました。物流倉庫の一角で生産していて、外注を使って物を集めてきては出荷する、という流れでした。当時のメンバーは4人、夜中の1時2時まで対応しなければ間に合わないほど注文をいただいていました。
いちばん利益が上がっていた時期だったかもしれません。利幅は薄くとも、数がたくさん出ましたのでね。白井に来て本格的に、工場で生産・保管・出荷をすることができるようになったのです。今は人数が10倍になり、製造する内容もずいぶん変わりました。
ーー創業からの流れを振り返ってお聞かせいただけますか?
駒村 振り出しはサラリーマン。NECの社員でやってきて、ある時君は中小企業のほうが仕事がしやすいんじゃないと言われて、転職しました。
確かに、中小企業では面白いように仕事ができました。言われたことをとにかくやる。うまくいくと、また次のものをやってくれ、と言うことになる。次から次へとテーマが変わって、答えを出していくことが面白かったです。
でも、最後はPRの仕事をやってくれと言われたんですね。ものつくりではなく、PRの仕事といわれた時、やっぱり私はものづくりがいいなとその会社を辞めることになりました。
ーーいろいろ体験したなかでも、ものを作るということが好きだった。
駒村 「開発をする」つまり「問題があれば、その解決を考える」というのが、自分のテーマかなと思っています。どんな問題でも、紐解いていくと非常に単純なことの積み重ねなんです。そういった意味では、一段上ると二段、二段上ると三段と、新しい視点が生まれてくる。
やっているうちに、別の気づきが出てきて、新しいテーマが見つかると言うこともある。好きなことをやらせてもらって面白かったですね。楽しそうだけど、やっている時は、なかなか思うようにいかなくて悩んでたりしましたけどね。でも、結果的にはうまくいった。
ーーそれが部署異動になって……。
駒村 ものづくりの部署からPRの仕事に移ってくれと言われたときに、マスコミを相手にするPRは自分のやりたいことではないなぁ、人間を相手にするより、問題を解決する方が楽しかったなぁと気づいたんです。
問題の解決には必ず答えがある。でも、人間が相手の場合は、どこが正解かわからないんですよ。だから、もしかすると私は人間が好きじゃないのかなぁ。私には、人を使うという感覚が全くないんです。逆に人から使われるのは得意です。テーマを与えられて、働く事は得意だけれども、自分が人にテーマを与えるのは、得意ではない。もうみんな自由にやったらいいんじゃないかと。
問題はあるのだから、それを解決するためにみんなで取り組むと言うのは楽しいです。ところが、問題解決というところに行かずに、みんなそれぞれのやりたいこと、わがまま好き勝手が出てきて、収拾がつかなくなっていく。それが煩わしいんですよ。
結果を出すことが何より大事だと思うんです。
静かにその問題について取り組ませてもらって、仮でもいいから答えを見つける。そのうえでみんなでやってみようよ!というところになると、とても元気が出るんですね。かつてそういうチームは自分でも持っていたけれども、そこには集まってくる人の個性っていうものがある。人には合うとか合わないとか、あるでしょう。このテーブルに集まった人の中で話がまとまらないと辟易して、それを引っ張っていくのがしにくいのが自分にとっての課題ですね。
ーー逆に、このメンバーでうまく行ったっていう例は?
駒村 技術屋さん同士の話はうまくいきますね。でも、技術屋さんでない、別な視点のものが入ってくると難しくなってくるのかもしれません。「出会い」次第なんでしょうね。腕のいい金型屋さんとか、非常にすぐれた電気屋さんとか、そういう異分野の人とコラボすると、めちゃくちゃいい結果がでますね。同質のものが集まってくると、好みの問題になっちゃうからね。好みの問題というのは、それぞれ関わった人の主観で決めることができるわけです。どうでもいいところを延々とやるのはつまらないんです。問題があって、その問題を解決するためにこうやったらいいよねというのが見えてくると、具体的な動きになっていく。それがいいですよね。
ーー会社員時代に学んだこととは?
駒村 大手の会社を辞めたとき「宮仕えはもういいや」と思って、小さい会社へ行きました。
その会社のワンマン社長さんは、とても厳しい人で。側近として入社した人が三日もてば素晴らしいと言われていました。みんなあっという間に「こなくていい」って脱落してしまう。大企業から部長や専務さんを招聘しても、三ヶ月でクビとか。もう本当に厳しい方でしたね。
でも、私はすごくかわいがってもらっていました。社長のできないところをやっていましたのでね。開発って簡単そうだけれども、実際はなかなか難しいじゃないですか。「こういうものを作れ」「はい」といって作るわけですね。そうするとたびたび「駒村を呼んでこい」となって、呼ばれていくと「あれどうなった?」と聞かれるわけです。
そこで「あれって何ですか?」と聞いたら「君は明日から来なくていい」となる。そりゃそうです、用があって呼ばれていくわけだから、「あれ」と言われたら、「社長と私との間の第一案件は何か」ということを、ぱっとひらめかないと駄目なんですね。次に「次あれ、どうした?」と言われたら、第二案件をぱっと答えるわけです。ちゃんと答えると、後で秘書さんがやってきて「社長は、『怒ってやるから呼んで来い』と言っていたんですよ。だからちゃんと怒られてください」って言われてね。そんな社長さんでした。そこで10年お世話になりました。
ーー3日も持たない人が多い中での10年。その社長から学んだこととは?
駒村 いい修行になりましたね。大変素晴らしい勉強をしました。ただ、10年在籍するうちに、後継者問題もあり、私がいると問題かもしれない、という雰囲気が出てきた。だんだん風当たりも厳しくなってきたので、辞めるということにしたんです。
その時に社長に呼ばれて「これからどうするんだ?」って言われました。「会社を起こして自分でやろうと思っています」と言ったら、「誰と組んでやるのか」聞かれました。「いや、一人でやります」って言ったら、「それがいい。人と組んでやったらだめだぞ」——それが社長自身の気持ちでもあったんだろうな、と。
その次に言われたことは、「銀行と付き合うには晴れていても傘を持っていけ」と。「用心して傘をもっていきなさい。借り入れをしなさいと言われるけれども、雲行きが怪しくなったら傘を取り返しに来るから、それを忘れないでおきなさい」「銀行さんというのは、いい時はみんな優しくしてくれるけれども、本当に困ったときにはどう動くかわかないぞ」ということを、教えてくださいました。
最近、銀行さんにいろいろとお世話になったりしていると、やはり銀行さんとの適正な付き合い方があるのでは、と思いますね。ただ、やはり慢心は駄目だろうと。私自身、お金に対する考え方というのは、所詮は預かり物。自分のお金という考えは持っていません。いい時も悪いときも、お金には、あまり悩まないで済んでいます。
ーー創業当初はどんなスタートでしたか?
駒村 自分で会社を興したとき、最初は自宅でやろうと思ったんですね。でも、墨田区に会社を構えている社長さんが「うちの工場に事務所を置いて始めたらどうか」と誘ってくれたんですね。
あまりにも熱心に勧めてくれるものだから、お付き合いということで、そこの会社に机と設備を持ち込んで始めました。ただ、ゴム工場の二階なので、カーボンが舞って製図も真っ黒になっちゃうし、図面も書けない。だからしばらくしてそこを離れたんです。
ただ、そこにいる間に「ユビラーク」という指圧の道具を製品化して、それが売れて、まとまった金額が入ってきたので、築地に事務所を出しました。のちに、ユビラークは、津村順天堂さんから二十五万個のご注文をいただいたことも。お灸にユビラークをセット販売させてもらった実績もあります。
ーーカバンひとつで、特許出願・設計の仕事をしておられたと伺いまいしたが?
駒村 独立と前後しますが、当時、特許事務所の先生からうちの仕事をやらないか、と誘われました。特許事務所には「先生、こういうことを考えたんだけれども、これは製品になりませんか」という相談がきます。でも、それはアイデアだけで手段がない。それを具体化する仕事を紹介をしてくれるというのです。特許を取りたい、商品化したいアイデアをお持ちの会社を、3社ほど紹介してもらいました。社長さんから「こういうものをつくりたい」という話を聞いて、アイデアにして形にして特許を取れる形にして、事務所がそれを出願します。私はカバンひとつで仕事ができる、というかたちでした。
中小企業の10年間に、エンジニアリング会社の社長さんと知り合いました。その方と一緒に、ある研究所の仕事をお手伝いしたのです。すると、研究所の所長さんが非常に気に入ってくれて、うちの仕事をやらないかと言われ、上福岡にある研究所に出入りするようになりました。ここでマイクロ波の開発機器の設計をすることになりました。エンジニアの方が考えたことを形にするのが私の役割です。考えている構想を、実際にはどうやって形作るか。モノを試作していきましたが、相手がみな大きい会社なので、設計も品質管理も非常に厳しかったのです。私はカバンひとつで出入りして設計しているだけで、この世界にはついていけないな、と感じるようになりました。
ーー接手(つぎて)の研究や商品開発もその頃ですよね?
駒村 そうです。そうこうするうちに、ユビラークが売れてくれて、状況が変わってきました。別なテーマの開発も、いろいろ頼まれていたので、そちらの活動にシフトしていったのです。特に面白かったのは、接手(つぎて)。つまり、モノとモノをつなぐという、そういう機能部品を作っていました。その接手を、フレーム連結するという技術がありました。それが、今の前開きのソフケンフレームにつながっていくんですね。「あ、これはいいものができた! これは自分で作って自分で売っていこう」ということで、製造にまで手を伸ばすようになったんです。
もともと、接手はテーマでした。会社の定款にも「接手」の開発と書いてあります。物事のどんなものでも「つなぐところに非常に変化がある」のです。つなぎ方いかんで、特性が変わる。建築なんかでもそのモノとモノと異質なものが一つにつながっているところって、いろいろ仕掛けを作ったりして、違和感が生じないようにするじゃないですか。そこに興味がありました。そういうことを自分なりに思ってきた。フレームをつなぐという方法でも、いろいろな接ぎ方がある。いろいろな方法があって、いくらでもつくれる。
あるとき、このフレームが、ちょっと力を入れたらはずれてしまう、困ったな、ということがありました。それを触っているうちに、あ、簡単に開く仕掛けのフレームができる、とひらめいたのが、ソフケンフレームの原型になるんですね。その構造を、本当にそうなるかどうか確認にするために、木製のモデルを作って検証します。昔から試作を頼んでいたところに行って、「こういうものを作ってもらいませんか」と。作って動きを確認して、確かめるわけです。でも、「これでいけるぞ!」とサンプルが完成することと、それを実際に生産することは、異質なことなんです。それはもう大変な思いをしました。まず、どこが作っているのか分からない。そのようなところから、ひとつひとつチャレンジをしていきました。
ーー工業団地協議会と倫理法人会、組織の仲間に入れてもらって……。
駒村 平成9年に白井に工場建て、ここに移ってきました。白井には工業団地協議会というのがあって、その組織の仲間に入れていただきました。それ以前の流山時代、倫理法人会に誘われたんです。当時はそこに所属していました。
白井に移転するとき、「白井に倫理法人会をつくるので手伝ってもらえないか」と頼まれたんです。事務所を開設して、そこで普及活動してもらいたいと。そこで、白井の倫理法人会を作るということを始めて、法人会の仲間を増やすためにあちこちに声をかけることになりました。それで、協議会に顔を出したり、商工会に顔を出したりして、人脈を広げていったわけです。
どんなことも、自分からこうしていこう、はなくて、何らかの外からのはたらきかけで、流されて、ご縁が広がっていきました。それを嫌と言わないから、来たものは拒まないから、協議会にも参加することになりました。入会してすぐのころ、意見を求められた時、自分が問題だと感じることをズバリ指摘して、先輩方から「無理無理」と言われていましたね。問題があればそれを解決すればいい、と思っていた私には驚きでした。
その後も問題だと感じることがあれば意見を出しました。後で「あの発言は良くなったかな」と反省はするんです。でも、私はそれを言ってしまうので、紛糾する。ただ、意見することが求められていると感じて、素直な感想は述べていました。いろいろ意見を言うものだから、推薦されて、理事ですとか、副代表というポジションを与えられました。先輩方から「やってみなさい」と言われたんです。
つまり「問題があったら、それを解決する」それを繰り返していたら、いつか、そういう立場になったというわけです。今思うと、若いころの私は、自分の立場をわきまえずに問題を指摘していたのでしょうね。頼まれてもいないのに、それをしたら煙たがられます。でも、問題を解決できる立場にたてば、その意見は意味のあるものになる。だからその立場になってみなさい、と席を用意されたのだと思います。
ーー流山時代の何かエピソードなどはありますか?
駒村 流山時代は、組み立ては全部外注だったんです。4人のパートさんがメンバーに加わり自社内でも組み立てを始め、みんな一生懸命、1日で800枚できた!1200枚できた!って競争するように面白がってやってくれました。今と同じですね。パネルの多くは、ジグソーパズルのOEM用でした。楽しかったのは、人間関係がにぎやかで楽しかったこと。社員旅行というかレクリエーションも盛り上がっていました。車に乗ってみんなで福島まで行って、野口記念館にいったりね。わたしを含め社員スタッフ8人で、わいわい出かけていました。
ーー白井にきて、スタッフの人数も増えました。
駒村 白井に来た時のメンバーは、事務の方も増えて13人ぐらいになっていました。それで3億から4億ぐらいの売上でした。オリジナルの品物は最初はほとんど出ませんでしたね。開発は続けていましたが。前開きのフレームをオリジナルで売り出そうとしていましたが、まだ名前が決まっていませんでした。「クリックフレーム」とつけたのですが、その後、「ラクパネ」と名称変更しました。最初の頃は、営業が画材店に売りに行って実演をしても「前から開くからって何になる」といわれて、がっかりしてね。「ライバル社と比べると高い。安価なものが欲しい」そう言われて、その需要を満たす製品を作っていきました。
ーー優秀な金型屋さんのおかげで、理想通りの製品が生まれた。
駒村 技術を担当してくれる人は本当に大切です。その金型屋さんは、設計の図面は、実寸の10倍で書いていました。手品の仕掛けを考えるような人だから、よく思いつかないようなことをやるわけですよ。えっ、こんなことできるのって思うようなものを作ります。その仕掛けたるやすごいわけですよ。でも今、そこはなくなってしまっている。
優秀な人間がそこにいたから、成り立っていた仕事なのに。素晴らしい人の技術が、受け継がれていかずに、なくなってしまう。発注する人がそういうものに価値を見いださないと、そこにまたお金を出さずに安いのがあるよとか、自分たちのコネでもってこっちでやるよできるよとか言っていると、重要な技術が絶えちゃうわけですね。樹脂というのは伸び縮みがあります。そこがむずかしい。
そこで彼の設計は私の発想とは違うものを作ってきた。でも、私は難しいほうを選択した。ひとたびそういうものができると、それを見て、また次に作るのは容易です。我々もわかっているから諦めない。彼でなければその難しい金型は作れなかったと思う。細かいところをすごく神経を使ってやる。そういう人がいないと技術、開発は維持できないんです。諦めずにそれをやり続けるところからステージがひとつ上がるわけですよ。そのおかげで、他社は同じものを作れない、という状態になっているんです。
ーーモノづくりには楽しさと辛さと、ドラマがあると。
駒村 設計は面白いですよね。人によって傾向が違う。ものを作る楽しさと辛さと、そこにはドラマがあるんですよ。吊り具ひとつとっても、構想はずいぶん昔からあった。でも売らないものがたくさんあるんです。試作したけれどまだ陽の目を見ていないもの。会社では邪魔だから捨ててくれと言われているけれども、これらの品物は一度もまだ世に出ていないんです。まだお客様に使ってもらうことすらできていないんです。そういった品物が多く存在するのですが、じゃあ使えるように作ってみようという人が現れるのを待っています。
本当は市場なんて無尽蔵にあるんです。「これ面白いからこの領域をやりたい! 社長やってみませんか」っていう人が出てきてほしい。技術を持った他社と力を合わせて新しいもの作っていく、ということもしていきたい。
今、筋電計を作っているのですが、完成した時に、今度は子供用が作れないかという話が出たんですね。条件を聞くと直径が 8 mm だという。現在は 11 mm なので、同じ方法では作れないわけです。
ではどうするか。ひとつ完成してまた宿題を与えられて新しいものを作っていく。ふたつめができる、ということは、いくつでもできるということなんです。 どういうものをお望みですか? それに答えていくことで、どんどんと新しいものを生み出していける。 ニーズによって、作るものを変えていけばいいんです。
ーーいちばん好きな肩書って、何でしょうか?
駒村 まず第一に、私は人間だ、っていうことですね。そしてチャレンジャーであり開発者。特徴としては、 おせっかい。人が困っているところを見るとつい口を出してしまうんですよ。 そして生きることって、修行だなと思いますね。
ーー自分で会社を興したいと思ったことはありましたか?
駒村 ただ仕事をしたかっただけで、会社を作ろうとは思ってませんでした。でも上司によって評価が百八十度違うということに、納得できませんでした。会社では、上司が「黒を白といえば白」だけれど、私は「黒は黒」と言いたかった。言われるがままに従うことは嫌だったんです。納得する人生が送りたくて、結果的に会社を作ることになりました。
ーー会社を辞める時の心境は?
駒村 会社を辞めれば、理不尽な命令をきかなくてよくなる。失敗してもいつでも振出しに戻れる。他人のせいにしなくてよくなったのが、一番よかったことですね。不安はありましたけど、いつでも真っ白な振出しに戻れる、という希望がありました。
ーー会社が40年続くと思っていましたか?
駒村 今日一日の連続が40年です。40年1日の如しですね。ビジョンがあったわけではなく、 目の前のことに一つ一つ取り組んできただけのことなんです。 例えて言うなら、会社は長屋で、社員は店子。社長は大家、そんな思いがありますね。 色々な人が会社に来る。そして来るものは拒まない。 会社での学びを踏み台にして偉大な人を輩出できたらいいなと思ってます。
ーーパソコン、インターネット導入は早かった?
駒村 そもそもNECにいたし、ワープロの開発過程で邦文タイプライターの活字の後ろに電極を付けたワープロの試作デザインを描いたりしていました。やがて製品化された文豪というワープロで自分の特許申請書を書くことにも活用していましたね。パソコンの導入は1998年。白井の工場ではインターネットにつないでいました。机にいながらにして、情報を集められる。全世界のことがわかる。自分の考えまとめる時にすごく役に立つ。 新しいことをやろうと思った時に、 その妥当性とか、整合性について事前に調べていましたね。
ーー筋電計の電極の設計を担当したきっかけとは?
駒村 もう5年前ですが、私がガンになって病院に20日間ほど入院したんです。それまでは会社にいると、社員の皆さんが「社長これどうしたらいいですか」と宿題をくれていたんですね。でも、退院して会社に戻ってくると、皆それぞれに忙しくて、私は質問されることがなくなってしまったんですよ。
ちょうどその頃に、千葉県の主導で、医工連携という取り組みを知って——、あるとき、その集まりがあると誘われて、出席しました。国立がん研究センター、東葛テクノプラザ、千葉大学、柏病院、順天堂大学病院などが集まって各自のテーマを語っていました。そのテーマに沿った機械を作れる会社はありませんか? という問いかけだったんですね。
そこで出会った先生が、内視鏡下手術をなさる方で。手術をする鉗子の動きを画像で見える化して、鉗子操作手技を評価出来ようにしたい、ということでしたが、その見える化を電気信号でチャレンジさせていただいたんですね。試作したものを使って、先生が論文を書き、 国際医学会に提出したところ採択され、ロンドン国際医学会で発表されました。
それは学生向けの機械なのでマーケットはさほど大きくありません。商品として魅力があるのは筋電計ではないかと先生から提案されて作ってみました。その特許も取れて、生産体制に入ったというところです。
ーー新しいものを開発するときの気持ちとは?
駒村 やはり時間がかかるものですね。機器に関しては、7年かかるとも言われています。今回は3年で形になりましたが、自分としては時間がかかったなという印象です。
形になると次の課題が見えてきて、階段を登っていくような感じです。あらたな課題が現れた時は、あー失敗したなぁ、これでは駄目なんだなぁ、とショックを受けますよ。ダメだったなぁ、と認めるところはつらいです。でもダメだったところが分かれば、そこを変えて次に行けばいいんですから。そこで諦めないで、じゃあどうすれば解決するのかと取り組む。
妻からは「あなたは中学生みたいね」と言われています。好奇心があると言うか柔軟性があるというか。へこたれない、諦めない。損得抜きにやりたいことに取り組む、そんなところが中学生と言われるゆえんかもしれませんね。
ーー落ち込むときはありましたか?
駒村 胃が痛くなるようなこともありましたけれどもね。何かことが起こった時には、それはどうやったら解決できるのかなって考えてきました。
例えば納品について課題が出来た時に、どうすれば届けられるかを考える。最終的には品物を持って、金沢に納品に行ったこともありました。確かにお金はかかるかもしれませんが、できることであるならば、やればいい。言い訳を考えてる暇があったら、行動する。プラン A がだめならプラン B をやる。B がだめなら C をやる。やれば必ず結果は出るんです。 過去の体験からそういう自信があるんです。できないとすれば、解決するための手を打っていないから。考え方が間違っているから、と私は思うんです。どんなことでもその人が本当にやりたいと思ったら必ず実現できる。困った時に助けてくれる人はいる。一緒に行って欲しいとお願いしたら面白がってくれる人が現れるんです。
ーー会社が長続きするコツはなんでしょう?
駒村 役に立つものを作る。世の中に必要とされているものを作る。それに尽きるのではないでしょうか。
私は、 派手なものとか、華々しいものには興味がないんです。地味で役に立つものであればそれで良しとする。 必要とされるものを磨きこむということをする。受け入れられているから続いてきたということだと思います。ただその間に次のことを考える必要がある。今あるものを大切にする、でも慢心せずに、危機感をもって次へエネルギーを注いでいくことですよ。
そして、助けられてここまできたという感じです。人との出会いも大事ですね。三国志ってあるじゃないですか。必要な時期に必要な出会いがある。
ーーまだまだ伺いたいことがたくさんあるのですが、本日は、お時間になってしまいました。またぜひ機会を作っていただいて、続きをお伺いしたいと存じます。今日は、ありがとうございました。
駒村 こちらこそ、ありがとうございました。また機会を設けましょう。よろしくお願いします。